BLOG

2018.3.28     「神様が説き明かしてくださる」

中国の友達がこのような文章を書いていました。

 「春は夢を抱いている。太陽の光は地の上に降り注ぐ。春は美しい姿を帯びる。色とりどりの色彩で描かれている。」

創世記40章1-4節

創世記40章は、エジプト王の献酌官と調理官、そして彼らと一緒に牢屋に閉じ込められていたヨセフとの間における夢の説き明かしの話です。

最近、私は夢をよく見るようになりました。しかし、その夢は私にストレスを感じさせる夢です。と言いますのは、学校でのテストの夢、つまり勉強したことのない所をいきなりテストされる夢とか、夢の中で、学校の授業中に突然起こる出来事がそれです。それらの夢は僕をひやひやさせます。 皆さんは、最近どんな夢を見ているでしょうか。

さて、今日も引き続き、ヨセフの話ですが、今日は、エジプト王に仕えていた献酌官と調理官がなんらかの罪で捕まり、ヨセフが閉じ込められている侍従長の牢屋にしばらく拘留されていた時のことです。

 ポティフャルの妻から追い込まれて理不尽な目に遭い、牢屋に入れられたヨセフ。彼がどのくらい牢屋に入れられたのかは定かではありませんが、ヨセフがポティファルの家で奴隷生活をし、監獄に入れられた期間が13年くらいであったと考えられます。その根拠は創世記37章2節と41章46節を見ましたらわかりますように、それは、ヨセフが17歳の時に兄弟たちによって奴隷としてエジプトに売られ、30歳でパラオ王に気に入られ、仕えるようになったと書いてあるからです。

 ここで、ヨセフの13年の奴隷生活を見てみたいと思います。

彼は奴隷生活と監獄での生活を自分の運命であると開き直っていたのでしょうか?兄弟たちに嫌われ、エジプトで仕えていた主人の妻にスーカーされ、挙句の果てには、牢屋での長い生活。その13年間、果たして彼は、何を考えていたのでしょうか。

 さて、この創世記40章で見られることは、先ず、王様を裏切って罪を犯した献酌官(王様に出されるお酒を毒見する人で王様に最も信頼される人)と調理官(王様に出される食事や王の健康状態に合わせて食事を作る責任者で王様に最も信頼されている人)。これに対して、ポティファルの妻からのどんな誘惑があっても神様を裏切らなかったヨセフ。逆に神様に信頼されるよりも神様をもっと信頼していたヨセフ。彼らは対照的に監獄に入れられていました。

 4節です。「侍従長はヨセフを彼らの付き人にしたので、彼はその世話をした。こうして彼らは、しばらく拘留されていた。」とあります。 ヨセフは、侍従長の命令によって、献酌官と調理官がしばらく監獄に拘留されている間に、彼らを世話しました。

つまり、彼らは、お互いに親しく話を交わしたとも考えられます。

ところで、ある日、献酌官と調理官はそれぞれ別の夢を、それも意味のある夢を見るのです。ここで、創世記37章9-11節を見てみましょう。

9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。

10 ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」

11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。

 これを読んでわかりますように、ヨセフは子供のころから不思議な夢を見ていました。その不思議な夢を兄弟たちやお父さんに素直に言ったのですが、無視され、バカにされました。勿論、彼自身も自分が見た夢の意味を知らなかったでしょう。しかし、ヨセフはその夢をも神様のなさるしるしであることを信じていました。

そこで、まさかの牢屋で、献酌官と調理官の夢の話を聞くことになり、神様のなさることを素直に伝えます。

それが5節から23節の夢の話です。一緒に見てみたいと思います。

 

本日のポイントは、8節です。「ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

 【それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。】

古代エジプトでは、眠りの中で見る夢は、神々からもたらされるプレゼントであると思われていました。私たちは将来のことを知りたがる習性を持っています。だから、未だに占いや予言が流行っているかもしれません。しかし、自分の運命を知ったからと言ってどうすることもできないし、余計に落ち込むだけです。やはり、全ての運命を神様に委ねることが一番、平安だと思います。

ヨセフの話に戻りまして、ヨセフは、「私がその夢を解き明かしてみましょう」と言ってはいません。「神様がそれを解き明かしてくださるのである。」とヨセフの信仰を明らかにしています。

私たちは、少し何かができた時、知らぬ間に自分に栄光を返す場合がありますが、福音を伝えるとは、全てにおいて神様に栄光を返すことであるのを私たちは忘れてはいけません。勿論、ここで、全てとは、良いことも悪いことも、神様のなさることであるということです。

 新約聖書の使徒パウロの話から開きたいと思います。

ピリピ人への手紙4章4-7節 4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

そして、ピリピ4章11-13節です。

11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 特にヨセフは、ピリピ4:4-7のパウロの体験と似ていると私は考えます。

即ち、ヨセフはすごい人だ。パウロはすごい人だではなく、すごいのは、唯一神様であると告白しなければなりません。

ですから、へフル人への手紙12章2節、信仰の創始者であり、完成者である主イエスから目を離してはいけません。この方を今日も、又明日も崇めたいと思います。

今日は、神様が私たちの夢を解き明かしてくださるというタイトルで一緒に学ぶことができました。 以上。


2018.3.21       「ヨセフとともにおられた主」

創世記39章全文

インマヌエルの神は、今も私たちの信仰によって私たちと共におられます。アーメン

21年前、私は大阪から京都の大学に一年間電車で通っていた時のことです。大学の授業が終わって大阪に帰る京阪電車墨染駅で電車を待っている間に、当時インマヌエル教会の看板を発見、その日から私はその看板を見るたびに、いつの間にか「インマヌエルの神」を賛美していました。「インマヌエル、インマヌエル、主の名はインマヌエル、共におられるわが主イエス、インマヌエル。」

インマヌエルの神は、約3,900年前にも主なる神によって愛される人たちと共におられました。その人が創世記39章のヨセフです。

先週も一緒にみましたように、創世記37章で、ヨセフは兄たちに嫌われて、野原でエジプトに向かっていたイシュマエル人の商人に銀貨20枚で売られました。

エジプトへ連れて行かれたヨセフは、エジプトの宮廷で仕えていたポティファル、即ちパラオの身を守る補佐官として仕事をしていたポティファルの家に、ヨセフは奴隷として来るわけです。ヨセフは、ポティファルの奥さんにも見惚れるほど、彼は体格もよく、美男子であったと6節に記しています。

 そのようなヨセフに、主はいつも共におられたと聖書は私たちに伝えています。

これが本日のポイントです。

2節を見てみたいと思います。主がヨセフと共におられたとあります。そこで、彼は幸運な人となりとあります。日本語の聖書には「幸運な人」と訳されていますが、原文から見ますと、或いは英語訳や韓国語訳を見ますと、「He was a successful man成功する人」の意味です。英語聖書のNIV訳には「so that he prospered」prosperの意味は、「繁栄する、栄える、すくすくと育つ、成功をもたらす」というラテン語からの語源を持っています。

 そうです。嘗て主がヨセフと共におられた時、ヨセフは守られ、どこへ行っても良い助け人が与えられ、成功することになりました。

私たちも又主イエスを信じる信仰によって、私たちはヨセフがそうであったように、どこへ行っても栄え、成功することが出来ます。アーメン

 その意味で創世記39章は、ヨセフのストリーの一部分ではありますが、私たち人生においても又主がともにおられ、守られるという約束のしるしであると考えても過言ではありません。

では、3と4節です。「ヨセフを奴隷として受け入れたポティファル、ヨセフの主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすること全てを成功させてくださるのを見た。

それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手に委ねた。」とあります。さらに、ポティファルがヨセフに、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフの故に、エジプト人ポティファルの家を祝福されました。それで主の祝福が、家や野にある全財産の上にありました。

ここで、幾つかの聖書箇所が思い浮かびます。

詩編118:22には、「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった」とあります。これを引用しているのが、有名なルカ福音書20章17節です。[イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった』と書いてあるのは、なんのことでしょう」とあります。

ここで引用されている石とは、メシアを意味します。即ち、ヨセフはメシアではありませんが、兄弟たちによって捨てられ、奴隷としてエジプトに売られてからは、何とエジプトの礎となりました。こう言った観点からも、将来来られる救い主、主イエスと類似していることが分かります。

 さて、ヨセフは外見的にも体格がよく、美男子だったので、主人ポティファルの妻に目をつけられ、おっかけられることになります。

7-10節です。7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言った。

8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。 (Gen 39:7-10 NKJ)

ここで、ヨセフの素直さと神様への思いがどれほどだったかが分かります。

彼は、自分にすべての財産を任せているポティファルを裏切りたくありませんでした。そして、ポティファルの妻と寝ることは、神に罪を犯す事であると自覚していました。

先日も創世記36章で見ましたように、ヨセフの兄たちは淫らな行動を平気にしました。そのことを父ヤコブも聞いていたのに黙っていました。しかし、ヨセフは兄たちのそういった行動が神様に罪を犯す行為であることを既に分かっていたのです。そこで、主はヨセフを愛しておられ、どこへ行っても彼の成功を保証してくれたのだと考えられます。

11-18です。

11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。

12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、

14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげたのです。

15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」

16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。

17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。

18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」

このように、ヨセフは、やってもないことをやったと、理不尽な目に遭います。そして、ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている刑務所に彼を入れました。しかし、主なる神は、ヨセフとともにおられ、監獄の長の心にヨセフに対する親切な心と憐れむ心を与えられることによって、その監獄にいる全ての囚人をヨセフの手に委ねます。そこでヨセフは監獄でなされる全ての事を管理するようになりました。

これは、犯罪者が刑務所に入って、刑務官長に気に入ってもらって、刑務所を管理する刑務官になるというあり得ないことです。

つまり、23節の二行目にもありますように、それは主が彼と共におられ、ヨセフが何をしても、主はそれを成功させてくださったからであると記しています。

これによって、先ほどの最初の2節にあります、「ヨセフは幸運な人となり」という日本語訳は、実際、ヨセフはどこへ行っても成功する人、繁栄する人であったことがはっきりわかったと思います。

 何度も言いますように、主イエスへの信仰によって、インマヌエルの神は、私たちと共におられ、私たちがどこへ行ってもヨセフのように成功させてくださることを忘れてはいけません。ただし、その成功の条件として、ヨセフのようにどんな誘惑があっても流されずに、常に自分の弱さに自覚していることが求められます。

これが、私たちの人生の繁栄と成功のカギになると言えるのです。

神様のヘセード、恵みが皆さんに豊かにありますように。アーメン

2018.3.14          「ヨセフについて①」

創世記37:1-11

創世記37章の特徴は、25章との類似点があることに気が付きました。

それは、創世記25章は、エサウとヤコブのもめ合いとその原因と分かれを記しているのに対して、37章も又、イスラエルの子供たちの中で、ヨセフがどのようにしてエジプトに売られることになったのかを25章のヤコブのストリーのように説明しています。しかも、同じ20年という年数で互いに離れ、最終的には兄弟たちが一緒に顔を合わせる場面もストリー的に類似しています。

では、初めにヨセフは何が原因でエジプトの奴隷として売られることになったのかを考えてみたいと思います。

一つは、2節にありますように、ヨセフは17歳の時、父の妻ラケルの女奴隷ビルハの子供たちであるダンとナフタリ、そしてレアの女奴隷ジルパの子供であるガドとアシェルの腹違いの兄弟たちと一緒に過ごしていましたが、彼らの悪い噂をヨセフが父ヤコブにチクったことによって彼に嫌われます。その悪い噂とは何かはわかりません。

そして、もう一つは3節、4節に、イスラエルは彼の息子たちの誰よりもヨセフを愛していたこと、このようなえこひいきが原因になります。ここで、イスラエルとはヤコブのことです。聖書はイスラエルとヤコブを混ざって使う場合があるますが、厳密に言えば、イスラエルは神と戦って勝った者を意味して、神に選ばれた民族を現します。そして、ヤコブは戦う者、だます者を意味して、ヤコブ個人を示します。私の個人的な考えですが、ここでヤコブの代わりにイスラエルと書いたのは、将来のイスラエルの分離をほのめかしているのではないかと考えられます。さて、ヤコブがヨセフを息子たちの誰よりも愛したのは、ヤコブが老人になって与えられた子であったからです。それで、ヤコブはヨセフに、そでつきの長服を作ってあげることによって、兄弟たちから妬みを起こし、兄弟たちは彼を憎んでいました。

もう一つは、5節です。ヨセフの夢の話が兄弟たちの怒りを招きました。6-11節を見てみたいと思います。

ヨセフは自分が見た夢を自慢することなく、兄たちやお父さんに素直に伝えました。8節、10節にありますように、彼らは、ヨセフの夢を将来に起こる出来事として預言しているかのように見えます。8節です。「兄たちは彼に言った。『おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。』こうして彼らは、夢のことや、言葉のことで、彼をますます憎むようになった。」言葉のことで???

そして、10節です。「ヨセフが父や兄たちに話した時、父は彼を叱って言った。『おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私やおまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏してお前を拝むとでも言うのか』」

まさか、ヨセフ自身も家族の誰も、その夢がまさ夢になるとは思ってなかったでしょう。

ヨセフの性格は、このようにお兄さんたちが悪いことをするとお父さんにそのまま告げるし、自分が見た夢も隠さずに伝える少し馬鹿正直なところがあったと思われます。

しかし、神様は彼の素直さと正直さを好まれたのかもしれません。

皆さんは、どんな夢を見たことがありますか。皆さんがもし、不思議な夢を見たなら誰かに言ってみるのはどうでしょうか。 私は寝る時に見る夢よりも、子どもの時、夢見たのが現実になったことがあります。(個人的話を含む)

 さて、以上、ヨセフが兄弟たちに憎まれ、エジプトに売られた原因を確認することができました。

では、ここでイスラエルつまり、ヤコブの十一人の子供たちについて見てみたいと思います。創世記35章22-26節です。一緒に読みましょう。

 ルベンはヤコブの長男ですが、なんと父ヤコブの女奴隷であるビルハと寝たとあります。ヤコブはこのことを聞いてわかっていましたが、聖書にはその後のことは何も記していません。即ち、先ほど創世記37章2節で確認しましたように、ヤコブの家族関係は性的に乱れていたことが見て取れます。

 さて、ある日のことです。ヨセフの兄たちは父ヤコブの羊の群れを連れて、遠くまで遊牧生活をすることになります。そこで、ヤコブは17歳のヨセフに兄たちが元気でいるかどうか様子を見て来いと送ります。ところが、兄たちは遥か彼方にヨセフが来ていることを見つけて彼を殺そうとたくらみます。

創世記37章20節です。「さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」このように兄弟たちはヨセフの夢を試そうとします。しかし、兄ルベンは、ヨセフを殺すことなく、荒野の穴に投げ込むことを提案します。そして、ヨセフが来たとき、兄たちはお父さんが作ってあげた服をはぎ取って、彼を穴の中に投げ込みました。ルベンはどこかに行きます。ルベンがいない間に、ちょうどイシュマエルの商人たちがエジプトへ下って行く所、兄弟たちは長男ルベンに相談することなく、ヨセフを彼らに売ってしまいます。

26-28節です。「すると、ユダが兄弟たちに言った。『弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。我々が彼に手をかけてはならない。彼は我々の肉親の弟だから。』兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引きあげ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。」

ここで一緒に考えてみたいと思います。ユダは弟ヨセフを銀二十枚で売りました。レビ記27章5節で確認できますが、人身売買の相場として、5歳から20歳までの男の子の値段です。主イエスの弟子イスカリオテのユダも又主イエスを銀30枚、つまり、大人の女性の値段で売りました。ヨセフを売ったユダも、主イエスを売ったユダもあいにく同じ名前です。これは偶然でしょうか。私もわかりません。

後に主イエスはヨセフを売ったヤコブの十二部族の一族であるユダの子孫であるユダヤ人たちによって十字架にかかることになります。そして、ヨセフが経験した苦しみを受けます。侮辱され、ののしられます。つまり、苦しみと救いの観点からヨセフとキリストは類似しているところがあります。

主イエスを売ったユダは、十字架の死と復活の役目を果たすために用いられました。そして、ヨセフの腹違いの兄ユダは、ヨセフをエジプトに売ることによって、ヨセフの夢を後に現実化させる立派な役割を果たすことになります。すなわち、ヨセフは、エジプトの首相になり、イスラエルを飢饉から救うことになりますし、主イエスも又、十字架の死と復活によってご自分の民を救いに導くことになります。次回、もっと具体的にヨセフの話を見てみたいと思います。

最後に創世記37章29-36節を一緒に読んで終わりたいと思います。

29 さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、

30 兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」

31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。

32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください」と言った。

33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」

34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。

35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。

36 あのミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った。

2018.3.11         「ヒゼキヤの信仰」

第二列王記18:1-8、第二列王記19:35、 (第二歴代誌29:1-11)

 《今日は、2011年3月11日、東北震災によって、たくさんの命が失われた日です。》

本日は、ヒゼキヤ王の信仰から学んでいきたいと思います。

まず、本日の聖書箇所の歴史的背景を考えてみたいと思います。これは、2,600年前の出来事であり、南ユダを支配していたヒゼキヤ王の年代記であります。そして、ヒゼキヤ王のそばには預言者イザヤが同年代の人物として同じ国で活躍していました。それでは、そもそもなぜ当時ヤコブの子孫であるイスラエルは、今の韓国と北朝鮮のように、北イスラエルと南ユダに分けられるようになったのでしょうか。その根拠は、第一列王記11章9-12節で確認できます。私が読ませていただきます。「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、他の神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。 それ故、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き抜こう。』」

 今、私が第一列王記11章9-12節をお読みしましたように、南ユダと北イスラエルの分かれの原因はソロモン王の時代に遡ります。その原因は何だったのでしょうか。それは、ソロモン王の偶像崇拝からなのです。即ち、全ての富と知恵、1,000人の女そばめと妻たちを持っていたソロモンは、残念ながら神様からの祝福を乱用し、挙句の果てには、700人の王妃を外国人の女性たち、つまり、偶像崇拝している人たちを彼の家族にすることにより、ソロモン王の晩年、彼が年を取り、力が弱くなった時に、彼女たちはイスラエルのアイデンティティを崩して、山の上の高い所やあちらこちらで、彼女たちの神々への偶像崇拝をし始めたのが切っ掛けだったのです。

 そこで、主なる神は、主の命令を守らなかったソロモンとその子孫たち即ち、イスラエルに対して、ソロモンの死後、ソロモンの家来より軍事グーテタを起こさせることによって、イスラエルの11部族はソロモンの家来が支配する北イスラエル側に、これがイエス様の時代にはサマリヤになるんですが、そして残り一つの部族は、南ユダに分裂されることになったのです。北イスラエルは、更なる偶像崇拝をすることにより、北の国アッシリヤから滅ぼされるようになります。そして又、南ユダも、残念ながら、真の創造主、唯一の神、即ちイスラエルをエジプトの奴隷から解放してくださった神様から徐々に離れ、外国の神々を受け入れることによって、主なる神は主から選ばれた最後の民である南ユダ王国をも又北の国アッシリヤを通して滅ぼされることを許します。しかし、その滅びは彼らが神に立ち変えてほしいという神からのご計画でもあったのです。 ところが、南ユダに幸いにも敬虔な信仰を持ったヒゼキヤが王様になることにより、つまり、彼は、偶像崇拝をやめさせ、エクソドスの神に立ち返るようにユダヤ人たちに訴え、彼らを霊的に目覚めさせることで、主なる神はヒゼキヤ王の側に立つことになります。 つまり、ヒゼキヤ王の敬虔な信仰が神の心を動かしたのです。

歴史的背景の説明が長くなりましたが。このように、エクソドスの神はヒゼキヤ王の行動を一部始終見ておられました。そこで、神は、南ユダがいよいよ北の国アッシリヤにより攻撃されようとした時、預言者イザヤを通して、神様の助けを強く求めることによって、南ユダを取り囲んでいたアッシリヤの軍人185,000人を、神様が送った一人の天使によって一晩で一掃されることになります(第二列王記19:35)。大体、このようなヒストリーは第二列王記18-19章、そして第二歴代誌32章、又イザヤ書36章にて確認できます。

 前触れが長くなりましたが、本日はヒゼキヤ王の信仰から学んでいきたいと思います。

では、第二列王記18:3-7節を一緒に見てみましょう。 

3 彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。

4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。

5 彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。

6 彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。

7 主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。

ヒゼキヤ王の信仰の一つ目は、3節にもありますように、主の目にかなうことを行なったことであります。 私を含めて皆さんはいかがでしょうか。何かをする時、今まで主の目にかなうことを行おうと努力したことはあるでしょうか。もしかしたら、主が喜ばれると勘違いして、自分の目にかなうことを行なってしまい、むしろ失敗した経験があったのではないでしょうか。

そして、4節に、彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシュラ像を切り倒し、モーセの作った青銅のヘビを打ち砕いたとあります。二つ目は、偶像崇拝です。まさに、私たちが住んでいる日本にも、そして、海外の到る所には今も、2,600年前のイスラエル人たちが偶像崇拝していたある物体を神々として崇め、伝統の名の下で私たちの風習や生活習慣にまで影響を及ぼしたりしてはいないでしょうか。例えば、日本の地域ごとに行われる祭りがそれです。

 聖書ははっきり語っています。つまり、これらに香をたいて、拝むことは偶像崇拝であると。

そして、形ある物に知らず知らずに手を合わせながら、二心を持ち、教会に来て礼拝することは神に喜ばれる行為ではありません。

即ち、私たちが主の前で祈りに祈ってもその祈りが天に届けられない理由は何でしょうか。それは、私たちの心のどこかに主の目に適うことよりも、自分の目に適うことを行なおうとしたりして、その二心が原因で、私たちの祈りが天の扉を開くことが出来なかったのではないでしょうか。 

 似たような鍵でも自分の家を空ける鍵が別にあるように、天の扉を開ける鍵も別にあります。

勿論、祈りは鍵です。しかし、間違った鍵で天の扉を開くことは出来ません。

 そして、三つ目、5節です。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた」とあります。また、6節には、「彼は、主に堅くすがって離れなかった」とあります。正直、私たちは、どれほど主なる神に信頼し、堅くすがっているでしょうか。

讃美歌が思い出します。「主にすがるわれに 悩みはなし十字架のみもとに荷をおろせば歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ歌いつつ歩まん この世の旅路を」。アーメン

 この前の金曜日に、私が日本留学中に20年くらい前、京都でお世話になっていた方のお見舞いに行ってきました。その方は脳梗塞で入院中ですが、昔も今も相変わらず主に堅くすがっていました。と言いますのは、私が2時間も聖書を読んであげ、賛美をしたら、「うん、うん」と答えてくれました。

さて、ヒゼキヤ王は敵と戦うとき、このような気持ちで主に委ねて向き合ったのかもしれません。

 私たちがだれかを信頼しているならば、困った時はよくその人に電話をし、どうしたらいいか相談したりします。もし、私たちが主なる神を信頼していれば、ヒゼキヤ王のように敵が自分を苦しめる時に、主に自分の悩みを告白するようになると思います。これが祈りであり、主に信頼している証です。

 私たちは、ヒゼキヤ王の三つの信仰、即ち、一つ目は、主の目に適うことを行なうこと。二つ目は、偶像崇拝をしないこと。三つ目は、主に信頼し、堅くすがることを一緒に学びました。では、ヒゼキヤ王がこれらを行動で示すことで結果的にどうなったのでしょうか。

 第二列王記18章17節です。「主は彼と共におられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。」とあります。なので、アッシリヤの陣営185,000人がヒゼキヤ王の前でイスラエルの神を見下してバカにした時、ヒゼキヤ王は怒りに燃え、預言者イザヤを通して神様に強く訴えることにより、その祈りは天に届けられたのです。

一緒に、第二列王記19章35-37節を見てみたいと思います。

第二列王記19章35節にありますように、神は一人の天使を送りまして、アッシリヤの陣営185,000人を打ち殺しました。ここで、185,000人という数字的疑問がわきますが、日本の自衛隊の人数が24万人くらいです。しかし、その当時、小さな南ユダを侵略するために185,000人を送ったのは圧倒的軍事力だと考えられます。ヘブライ語原文を見ても、他の英訳を見てもこの185,000人は間違いありません。同じ内容を載せている第二歴代誌32章21節には、アッシリヤの陣営の数字は出なくて、「主は一人の御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた」とあります。しかし、そこには、第二歴代誌32章20節のヒゼキヤ王と預言者イザヤが祈りを捧げ、天に叫び求めたとあります。ここで、一人の御使いとは、主イエス・キリストではないかと考える学者もいます。 私たちは天使と言えば、かわいい赤ちゃんのような存在に思われがちですが、実は聖書に出て来る天使は裁き司の役割を持った力強い神の使いを意味します。 また、私たちが祈る時、静かに祈ることも時には必要ですが、ヒゼキヤ王と預言者イザヤのように主に叫び求める祈りも時には必要だと思います。聖書のイスラエルの先人たちがそうしたように、私たちも主に叫び求めることに挑戦するのはいかがでしょうか。その祈りは必ず叶えられると信じます。アーメン

 ともかく、ヒゼキヤ王の叫び求めた祈りに答えられた主は、今私たちが信仰している同じ神であることを忘れてはいけません。この神様がいつも皆さんと共にありますように。アーメン。

さて、ヒゼキヤ王の死後600年後、人の身体をもって聖霊によってこの世にお生まれになった方がいます。この方が主イエス・キリストです。この方は本来神でありました。

この主イエスは33歳の時、数千、数百のユダヤ人たちと異邦人であるローマの兵隊たちの前で、裸のまま私たちの罪を背負い、十字架にかかられました。そして、死んだだけで終わらすに、三日目に蘇りました。確かにこの方は、ヒゼキヤ時代にも働かれた神様であり、185,000人の敵を一人の天使を遣わして全滅させた神です。主イエスは十字架にかかられる時、数千、数百の群衆と兵隊たちを一人の天使を送って打ち殺すこともできましたが、あえて、そのようなことはなさらずに、私たちの罪のために十字架にかかられ、実は弱くない方が弱い体を持って死なれたのです。 そして、主イエスの弟子であるペテロは、主イエスを逮捕しに来た群衆、その中の大祭司のしもべに撃ってかかり、剣を抜いてその耳を切り落としました。その時、主イエスはペテロに向かってこのように言われました。

マタイ26章52-53節です。「そのとき、イエスは彼に言われた。『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅ぼされます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団(72,000人)よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。』」

天使たちの力を動かすことができるこの方こそ、私たちの救い主です。そしてこの方はご自身の十字架の死によって、永遠のいのちへの希望とこの世においての信仰を私たちに与えられたのです。これを未信者の人に説明しようにも説明することは難しいのです。

なぜなら、私たちの信仰は神様からのプレゼントであるからです。  即ち、今から2,600年前に南ユダのヒゼキヤ王の祈りを聞かれた神、この神が主イエス・キリストであります。この方は聖霊によって今も私たちの信仰と信頼の故に働き続けられ、私たちがどこへ出陣しても勝利を与えてくださる方であり、さらに今も、秩序にそって、宇宙を司り、太陽と月を昇らせ、私たちが救われるまで、つまり、永遠のいのちが与えられるまで執り成しをし続けてくださる真の神であります。 本日は、ヒゼキヤ王の信仰から一緒に学ぶことができました。

皆さん、この主イエス・キリストに堅くすがって、この世の旅路を全うしようではありませんか。

アーメン

2018.2.28       「神が恵んでくださった証」

創世記33章1-11節

 ヤコブにとって、20年ぶりに兄エサウに会うことが残念ながら嬉しくありませんでした。むしろ、彼の人生にとっての最後の日になるかも知れないとの恐怖で、前日の夜、天使が現れた時、夜明けまでその天使を手放してくれませんでした。彼のしぶとさは、彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられるほどで、神の御使いにとっては、大変な行動でした。   そこで、ヤコブは天使とのスモウ取りで、もものつがいが外れます。 そして足を引きずってしまいます。 この光景はヤコブにとって決して夢ではありませんでした。むしろ聖書は、ヤコブはなんと顔と顔を合わせて神を見たと表現しています。それは、昔から神を見る者は死ぬと言われていたのですが、ヤコブの命は幸い助かったからです。

 神を見て、更に神と格闘し、命救われたヤコブは、400人の勇士を引き連れてやって来る兄エサウにいよいよ出会います。しかし、彼は、夜通しで眠れることなく、兄エサウとの20年ぶりに会うことへの恐れと緊張感に包まれていました。そしてヤコブは、神の天使からの命の保証と祝福をうけたにもかかわらず、悪知恵を働かせます。

と言いますのは、兄エサウが400人をも引き連れてやって来ることに対して、万一の攻撃を心配し、一番先頭には、女奴隷たちとその子供たちを立たせ、その後に愛していない妻レアとその子供たちを立たせ、そして、群れの最後に自分がもっとも愛しているラケルとヨセフを置きました。  

ここで余談ですが、イスラエルの12部族になるヤコブの男の子たちはこの時点ではまだ十一人です。ベニヤミンはラケルによってヨセフの弟として後に生まれます。

 さて、ヤコブの群れの配置から考えますと、ヤコブの悪知恵は20年前に兄エサウから長子の権利を奪い取る時と何も変わってはいませんでした。これは私の考えなんですが、人がどんなに色んな経験をし、へりくだることを学んでも、やはり、生まれ持った性格は変わることは難しいと思います。つまり、私たち人間がヒトを変えるのにも限界があるということです。 

さて、ヤコブ自身は、その群れに先立って進みました。彼は、兄エサウに近づくまで、七回も地に伏してお辞儀をしました。ヤコブは、何を考えながら、双子である兄にそこまでしたのでしょうか。20年前のことを思い起こしながら、あの時の罪を償えるなら、何でもやるという命拾いの気持ちだったのでしょうか? 彼の頭には極度の緊張さのあまり前日夜通しで、神の天使と格闘した疲れすら感じなくなっていたのかもしれません。 

ところで、兄エサウは、足を引きずりながら、遠くから7回も地に伏して自分の方にお辞儀しているヤコブを見て、何を考えたんでしょうか。足を引きずっている弟ヤコブの疲れた姿に復讐への気持ちは一瞬にして消えたかもしれません。そこで、エサウはヤコブの方へ走って行き、彼を抱きしめて口づけします。そして、二人は泣きました。 私の考えですが、もし、ヤコブが前日神との格闘もなく、元気な姿で、目をきょろきょろしながら、何もなかったかのように「おー、兄貴、元気でしたか?」と聞いていたならば、兄エサウはきっと400人の勇士に命じて皆殺ししていたかもしれません。ここで、二人の性格を考えてみたいと思います。兄エサウは狩りが好きで野性的な性格を持っていました。その分、過去のことでくよくよしないあっさりした性格を持っていたのではないかと考えられます。それに対して、ヤコブはオタク気質があり、過去の罪悪感にとらわれていました。

又、ヤコブは兄エサウに赦されますが、創世記34章で、他人の罪は決して赦さない性格であることが分かります。このように、兄エサウの意外な行動で、ヤコブはその罪から解放されます。

 ここで、ルカの福音書15章の放蕩息子の話が思い出します。ルカ15:24には、「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と父は言います。 

さて、本日のポイントですが、エサウは目を上げ、ヤコブの女たちや子供たちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねました。そこで、ヤコブは、「神があなたの僕に恵んでくださった子供たちです」と答えます。ここが大事です。この箇所で、あなたの僕とは、ヤコブのことで、兄エサウに対して、自分を徹底的に下げて、相手を高めることで命の危険から逃れようとします。ヤコブは初めて神が自分を祝福し、恵んでくださったことを証しています。夜通しで神の天使との格闘でようやく気づいたのでしょうか。それまでヤコブはまだ神への信仰はありませんでした。しかし、兄エサウの赦しから、ヤコブは自分が最初杖一本のほか、何も持たずに家を出て、20年間これまでたくさんの子宝に恵まれ、財産をもち、このような祝福を受けたことは、自分の努力ではなく、神の恵みであったことを兄エサウに告白しています。つまり、「神があなたの僕に恵んでくださった子供たちです」と。 やはり、私たちも、キリストの十字架によって救われて、永遠のいのちが保証されているからには、ヤコブのように、人の前で堂々と、私たちの人生において神が恵んでくださったことを証できるようになれば嬉しいと思います。

最後に、私の証しを持ちまして終わらせていただきます。

この前、久しぶりに以前私がドラムを教えていた佐藤さんに会ってきました。もう彼に会ってから12年。彼は72歳になって今も和食屋を経営しています。久々に挨拶しに行ったところ、9年前にごみ収集で知り合った別の会社の運転手さんも食事に来ていまして、久しぶりに出会ったことで、色んな話に盛り上がりました。そして、話の最後に私が日本人に、日本の文化に感謝していることを証しました。それは、私が本当の意味でクリスチャンになれた切っ掛けになったからです。彼らとの話の中で、私が日本語の聖書を読んで本当の神存在が分かったことをも証出来ました。私のそのような過去の色んな証を一緒に聞いていた他のお客さんも、私の話に感動してくださり、彼らにも何気なく教会の宣伝と福音を伝えることができました。証の最後に、「私たちの失敗も出会いも偶然は在りませんよ。すべては神のご計画の中にありますから」と、大胆に彼らに伝えることができました。

 小さな出会いの場所でも、主なる神をお証出来たことに感謝します。 アーメン

2018.2.14        「神を感動させる祈りとは」

創世記32:24-32節

ヤコブは母リベカの兄ラバンの家で20年間住んでいました。ヤコブはラバンの二人の娘たちのために14年間。そして、ラバンの羊の群れのために6年間、合計20年間ラバンに仕えてきました。それなのに、ラバンは幾度もヤコブへの報酬を変えたのです。

それにもかかわらず、主なる神は、ヤコブの悩みとその手の労苦を顧みられました。そして、妻であるレアとラケル、女奴隷たちによってたくさんの子宝に恵まれました。それだけでなく、不思議な方法で、正当な方法でたくさんの羊や山羊、らくだ、牛などが与えられ、彼の財産となりました。ある日、ヤコブは自分に対するラバンの態度やラバンの息子たちが以前のように優しくないのに気が付きます。その理由は、ヤコブが見る見るうちに祝福されて財産が増えていったからです。

そこで、ヤコブは二人の妻レアやラケル、そして奴隷たち、子供たちを連れてラバンの家からカナンの地にいる父イサクの所へ逃げる決心をします。

ヤコブはラバンの家から離れる時も、ちゃんと神の使いの声に従って行動しました。勿論、ヤコブの群れが逃げる時、ラバンに追っかけられたのですが、ヤコブは旅の途中ラバンと石塚を作って契約を結びます。その石塚はヤコブとラバンの境界線となりました。

創世記32章1-2節です。「さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見た時、『ここは神の陣営だ』と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。」

 私たちも人生の旅を続けているとき、ヤコブに現れた神の陣営が、私たちにも現れるとどんなに心強いことでしょうか。

 ヤコブは20年ぶりに地元に帰るのですが、長子の権利を奪った兄エサウのことが気になって、それほど嬉しくはありませんでした。むしろ、兄アサウを恐れていました。それは、兄エサウが弟ヤコブを殺そうとしていたからです。それから、20年が経ちます。そこで、ヤコブは前もって兄エサウの様子を探るためにエサウが住んでいる所に使者を送ります。 

 その使者がヤコブの所に帰ってきて、兄エサウは、ヤコブを迎えに400人を引き連れてやって来ると言う話を聞きます。そこで、ヤコブは非常に恐れて心配し、切羽詰まった思いでこのように神様に祈りました。

創32章9-12節です。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられました主よ。 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子供たちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数え切れない海の砂のようにする』と仰せられました。」と、このように具体的に祈るわけです。

ヤコブが家を出て20年。色んな経験をして、彼自身も兄エサウの長子の権利を奪ったことを申し訳なく思い、兄の怒りをなだめるためにたくさんの贈り物を用意していました。勿論、この贈り物で兄の怒りが収まるとも思っていませんでした。ですから、ヤコブはヤボクの渡し(Ford)を渡った時、二人の妻と、二人の女奴隷と、十一人の子供たちを先に渡らせて、自分だけ、あとに残り、神の使いと夜明けまでお相撲を取ります。これが有名なヤコブの格闘の話です。

それでは、本日の本題に行きたいと思います。前触れが長くなりました。

ヤコブと言えば、創世記28章のヤコブの夢の中での神の御使いたちが、梯子を上り下りしている場面と、創世記32章のヤボクの渡しで、ヤコブが神の使いと格闘した場面が挙げられます。創32章の神の天使とのスモウ取りは、色んな角度で解釈されています。つまり、ヤコブのスモウのことを神の心を動かす「祈りの大切さ」であると、ほとんどの説教者は語られています。しかし、このようなヤコブと天使との格闘或いはスモウ取りは、創33章にあります兄エサウとの20年ぶりの再会の緊張さ、いや、下手すると自分の命が危ない危機感の中において、必死に、自分を守って祝福してくださるように、夜通しでそれも太陽が上るまで数時間、さらに自分のもものつがいが外れるまで天使にしがみ付いて格闘するのに十分な行動であったとも言えます。

そこで、ヤコブは創32:28節で、神と戦って勝利したことで、ヤコブからイスラエルという名前に変えられました。ここで、一緒に考えてみたいと思います。

私たちは、悪魔と戦って勝利するのも難しいのに、神と戦って勝利するとは、とんでもないことだと私は思います。これは、比喩的、アレゴリカルな表現だと思います。

創32章のヤコブの格闘は信仰からと言うよりも生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれての勝利だと思います。 例えば、マルコの福音書7章24-30節で、汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、主イエスの足元にひれ伏して、自分の娘から悪霊を追い出してくださるように主イエスに願い続けました。すると、主イエスは言われました。ユダヤ人たちにあげるパン、つまり恵みを取り上げて、小犬のようなあなたみたいな異邦人に投げてやるのは良くないことですと言います。しかし、女は答えて言いました。「主よ。そのとおりです。しかし、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」そこで、主イエスは言われました。「そうまで言うのですか。それなら家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていたと福音書は伝えています。  この女性の話とヤコブのスモウ取りの話の共通点は何でしょうか。それは、切羽詰まった状況に置かれて、わらにもすがる思いが神を感動させたことです。何をどのように祈ればいいか分かりませんが、女性のように、或いはヤコブのように必死に願い続けることで、天使も感動し、主イエスも感動され、求める人に祝福が保証されたのです。たくさん祈ったから叶えられるような祈りの量ではないことが分かります。つまり、神に祈り求める時の真剣さが大切です。それが神に伝わったかどうかがポイントであると思います。